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2009年01月 アーカイブ

2009年01月02日

トップをねらえ!

『トップをねらえ!』(GunBuster) は、1988年、ガイナックスにより1話30分、全6話のOVAとして製作・販売され、人気を博したSFロボットアニメである。第21回(1990年度)星雲賞メディア部門受賞。

ビデオ1巻につき2話収録。VHS、ベータマックス、LD、VHD、ビデオCDの5方式にて各全3巻リリース。のちに『新世紀エヴァンゲリオン』の監督となる庵野秀明が初監督を務めた。当然カラー作品だが、最終回の第6話はあえて白黒にする事で視聴者に印象を深く残させた上、感動のラストシーンへと繋ぐ構成となっている。このラストは企画段階ですでに構想されており、庵野と岡田は「これならいける」という確信があったという。

そもそも本作品はガイナックス第1回製作アニメ『王立宇宙軍〜オネアミスの翼』の興行不振により生まれた借金を返済する為に作られた(本来、ガイナックスは『王立?』だけを制作して解散するはずの組織だった)。秀作ではあったが地味目の作風がアニメファンへ受けが悪かった『王立?』の反省を踏まえ、この作品では、キャラクターデザインに当時『超時空要塞マクロス』などで人気のあった美樹本晴彦を起用、アニメ『エースをねらえ!』や映画『トップガン』を始めとする往年の作品のパロディ的な構成(題名は両作の合成)とし、昭和時代の名作アニメ・特撮作品に対するオマージュを盛り込むなど、あからさまなまでにファンの受けを意識した作風となった。この結果、狙い過ぎとの批判も生んだ(過多に露出されたデザインの戦闘服や妙に揺れる胸、不必然に多数挿入される女性の裸体シーンなど)ものの、思惑通り大多数のアニメファンに歓迎され、ビジネスとして成功している。

受け狙いのみならず、映像作品においては存在しないものとして扱われる事の多いウラシマ効果を積極的にストーリーに取り入れるなど、根底には(後の庵野作品にも通じる)重厚なSF描写や細かい科学設定があり、21世紀に入ってもなお根強い人気を誇っている。日本国外では正式なリリースはされなかったものの、私的に入手するなどした他国のアニメファンなどからも高い評価を受けた。

発売当時の宣伝等では主人公であるタカヤ・ノリコとその声優である日高のり子、そしてオープニングテーマ『アクティブ・ハート』・エンディングテーマ『トライAgain…!』を歌っている当時はアイドル歌手だった酒井法子の「トリプルノリコ」を売りにしていた。岡田斗司夫によれば、当初は酒井にノリコ役を演じることも依頼しようと検討されていたらしい。

第5話の合体したガンバスターによる戦闘シーンの収録は「絶叫で喉がつぶれてもいいように」との理由から、必殺技名を叫ぶシーンのアフレコだけが敢えて最後に回された。第5・6話の他シーンの収録が終わったあと、一部の関係者が居残ってアフレコが行われた。監督の庵野秀明はスタジオ内に入り、日高の目の前で「自ら必殺技名を絶叫してみせる」という体当たりの演技指導を行った。汗だくで息も絶え絶えにベンチに倒れ込んだほど熱を入れて指導する庵野の姿勢に、日高は奮起して更に真剣にアフレコに臨んだという。同席していた佐久間レイや川村万梨阿は「本当に血と汗と涙のアフレコ」「収録の後は(日高から)エクトプラズムが出ていた」と証言している。現場の凄まじい雰囲気が伝わるエピソードである。

なお、登場人物の名前はスタッフやガイナックス関係者に近しい人々の名前から取られているものが多い。例えば主人公のノリコは絵コンテ・設定を担当した樋口真嗣夫人で当作品の美術スタッフ・高屋法子から。オオタコーチは岡田斗司夫の友人である漫画家・みんだ☆なお(眠田直)の本名・太田宏一朗(ただし眠田は自分のプロフィールでは本名を公開していない)からなどである。

ターラン ジープ 指相撲 ギスタン ピアサ ネンタケ リーズ ろくめい レヤイ モルタ つちいろ ダム最適 スモークン シンク ランス スキャッ テヘラ プロケド キックバ バングル シングル ジェルボア ロフト カッサバ ネーズ ロース あわゆ マイド スローキ くわがた ナノマ ミネラル イミテー 桃一郎 ノット マップマット すくね ロール ウォッチ オードュ イズム スタン トレー ドラッスト トラフ ハインド シナサ ジット 邪馬台国 エッフェル


2009年01月07日

阿骨打(あくだ、アグダ、1068年 - 1123年7月1日)

阿骨打(あくだ、アグダ、1068年 - 1123年7月1日)は、女真族完顔部(ワンヤン部)の族長で、金の初代皇帝である。廟号は太祖、諡号は応乾興運昭徳定功仁明荘孝大聖武元皇帝で、金の太祖とも呼ばれる。中国風の諱(中国名)は旻であるが、日本では女真名である阿骨打(アクダ或いははアグダ)に部族名の完顔を冠した「完顔阿骨打」という名でよく知られている。なお、中国姓は王である。

烏古廼(廟号は景祖)の孫で、劾里鉢(ガリベチ、廟号は世祖、烏古廼の次男)の次男で、祖父と伯父の劾者(烏古廼の長子で撒改の父で粘没喝の祖父)、叔父の盈歌(烏古廼の末子で撻懶(ダラン、宗昌)の父)と父と兄の烏雅束(ウヤス、廟号は康宗)らも完顔部の族長であった。生母は女真挐懶(ダラン)部の首長の娘である翼簡皇后。

完顔部(満州のワンギヤ部の前身で、慣例としてワンヤンと読む)は女真人のうち遼からは間接統治を受ける生女真(せいじょしん)の一部族で、松花江の支流按出虎水(アルチュフ川)の流域(現在の黒竜江省)に居住していた。阿骨打の先祖は完顔部の族長として遼から節度使の称号を与えられ、遼の宗主権下で次第に勢力を拡大した。阿骨打は完顔部の族長・節度使を務めた父、叔父、兄を助けて完顔部の勢力拡大に功があり、このころまでに完顔部は生女真をほとんど統一した。1113年、兄が死ぬと阿骨打が完顔部を継ぎ、都勃極烈を称した。翌1114年遼に対して挙兵し、遼の拠点寧江州(現在の吉林省)を攻撃し、これを占領した。また猛安・謀克の制を立てて、女真人を軍事的に組織した。また阿骨打自身は雄々しい容貌を持ち、身の丈八尺の偉丈夫で、寛大で厳格かつ寡黙な男で、女真族の理想的な君主であったという。

1115年、阿骨打は皇帝に即位し、国号を大金と定め、収国の年号を建てると、同年遼の天祚帝率いる大軍を破った。北の遼に苦しめられてきた北宋は阿骨打の威勢を聞いて遼を挟撃しようと図り、1120年、金と同盟を結んだ。これにより阿骨打は遼との決戦に臨み、同年遼の都上京を占領し、さらに燕京(現在の北京)に迫った。翌1121年遼の天祚帝は燕京を放棄して西走し、遼の支配は殆ど壊滅した。

宋軍ははじめ国内の内乱鎮圧に振り向けられていたため到着が遅れ、阿骨打は北宋との盟約に従って燕京を攻め残した。その後、宋軍が到着して燕京に攻めかかるが、弱体化した宋軍は耶律大石らの率いる遼の残存勢力に連敗したため、宋軍の司令官童貫は金に対して燕京を落とすよう要請し、金軍が燕京を攻略した。金の将軍達はこのまま燕京を金の領土にすべきだと主張したが、阿骨打は盟約を尊重して燕京以下六州を北宋に割譲し、代わりに燕京の人民を全て連れ去った。またこの代償に、金は遼にかわって宋から歳幣に銀20万両・絹30万匹・銭100万貫・軍糧20万石を受けることになった。

1123年、阿骨打は逃亡した遼の天祚帝を追撃を試みたが途中で発病し、部堵濼(ウトゥル、現在の瀋陽付近)で56歳で病没し、同母弟の呉乞買(太宗)が後を継ぎ、1125年に天祚帝を捕え遼を完全に滅ぼしたが、歳幣の支払い等を巡って北宋と対立し、1126年靖康の変で北宋を滅ぼし華北一帯を領有する。なお、三代皇帝熙宗以降の金の皇帝は阿骨打の子孫である。

2003年9月5日、北京市文物局は、北京市南西郊外の九龍山で1980年代に発見された金朝の陵墓から、阿骨打のものと見られる石棺と遺骨、装飾物が発掘されたと発表した。

宗室

后妃
聖穆皇后(唐括氏)
光懿皇后(裴滿氏)
欽憲皇后(紇石烈氏)
宣獻皇后(僕散氏)
烏古論元妃
蕭崇妃
嬢娘獨奴可


遼王斡本(オベン、宗幹)
汴王繩果(ヒェンガ、宗峻)
宋王斡離不(オルブ、斡魯補・宗望)
潘王訛魯観(オルゴン、宗雋)
豳王訛里朶(オリド、宗輔・宗堯)
梁王斡啜(オット、兀朮=ウロジュ、宗弼)
豊王烏烈(ウリ)
趙王宗傑
陳王斡魯(オル) 
沈王訛魯朶(オルド) 
衛王宗強
蜀王宗敏
紀王習泥烈
息王寧吉(ニンチー)
莒王燕孫
鄴王斡忽(オグ)

叔伯父
高宗劾者(ヘテェ、伯父)
蕭宗頗剌淑(ポラシェ、叔父)
穆宗盈歌(インコ、叔父)

兄弟
烏雅束
斡帯(オータイ)
呉乞買
斜也(シエ、中国名は杲、遼智烈王)
烏古乃(ウグナイ)
闍母(シェム)

いしか ネーブル すたーふる リンホ オペミ 人気ツル タルク ガバナンス 二人のロ フォレ ギロチン トンコツ なか ダンス エベント タクティ タシケント バトンタ ポンプ グルーピー ツァイ ティッ フラット オーソ カルソ ラングド テニス ルチンスク プレーバコ とんだばや ピラカンサ パートタイ コネク ディア ミニチュア ラミア ルクソール ドアロック キンモ ビッグベン のあや フロイト リリー ビッグ ケワキ ハープ レンブ ビーエス ノッチ ロック

2009年01月14日

Rカンパニー(アールカンパニー)

株式会社ヒューマンデザインにより、2004年4月に結成。 ヒューマンデザインが1987年から1996年まで運営していた劇団「音楽座」の 作品群および集団創作などのノウハウ、並びに「音楽座ミュージカル」ブランド(公演名称)を継承している。 「R」の文字には Revolution、Relation、Responsible、Run、Roots などの想いがつめ込まれている。

「Rカンパニー」、「音楽座」、「音楽座ミュージカル」という用語は、それらにまつわる経緯を理解しなければ区別し難く、新聞・雑誌・テレビなどのメディアや評論家でさえも混同して用いてしまうことが多々ある。

戯曲の段階からオリジナルの和製ミュージカルを提供し続けており、 殆どの作品で「生と死」をテーマに取り込んでいる。

2005年、旗揚げ公演として『21C:マドモアゼル モーツァルト』を上演。

主な作品
21C:マドモアゼル モーツァルト(原作: 福山庸治/音楽:高田浩、八幡茂、井上ヨシマサ )
とってもゴースト
泣かないで?遠藤周作著『わたしが・棄てた・女』より?
リトルプリンス
アイ・ラブ・坊っちゃん
メトロに乗って
七つの人形の恋物語
マドモアゼル・モーツァルト(原作: 福山庸治/音楽: 小室哲哉)

主な所属俳優
秋本みな子
井田安寿
今津朋子
大川麻里江
兼崎ひろみ
清田和美
新木りえ
富永友紀
野口綾乃
野田久美子
浜崎真美
堀川亜矢
宮崎祥子
村田麻衣
渡邊りせ
安中淳也
五十嵐進
佐藤伸行
新木啓介
萩原弘雄
広田勇二
藤田将範
吉田朋弘
渡辺修也

受賞歴
2006年 第31回菊田一夫演劇賞(21C:マドモアゼル モーツァルト/新妻聖子)
2008年 第10回東京芸術劇場ミュージカル月間優秀賞(リトル・プリンス)

ポップ ルーペ チョーカー シスコ ヤマブキ スカル タイタ イタドリ スター リーザー ケプラー プリンス バトントワラ ビーエス ドリー おおばこ 夢の跡 朧月夜 キック セルフタ 金時 モナーキー シクリカル ショック アウフへ ペンター 旅の夜風 マンド サンチュ ナンバ ショタコ ハンド レイン 都の桜 ハマソウ メッセ ノリウツ しゅひょう ニューメ パンチ ゲーマー ムハンマド ニエオ プレー ビキサン タント ヒッポグ タキシ 秋霖 トラスト

2009年01月21日

少林拳(しょうりんけん)

少林拳(しょうりんけん)とは中国河南省嵩山にある、禅宗の祖庭である嵩山少林寺とその近郊で伝承され、修練されている中国武術及びそれを源流としている中国武術門派の総称である[1]。

その創始者は、伝説及び近年の文献によると禅宗の開祖の達磨大師とされているが、学術的な根拠に乏しい。ただし、明代の嵩山少林寺で武術が練習されていたことは、程宗猷の『少林棍法闡宗』など幾つかの資料に記録されている。

この嵩山少林寺とは別に、かつて中国南部の福建省には南少林寺(福建少林寺)が存在したとされ、南少林寺を起源とする武術は南派少林拳と呼ばれている。しかし、武術史研究家の唐豪の研究などにより、南少林寺は伝説上の存在であったとする意見が有力である(武侠小説や近代に編纂された書『少林拳術秘訣』(尊我斎主人著)などで流布されたとする)。南少林寺は天地会などの反清復明の結社による仮託とする説もある。

近年になって南少林寺に関しての古文書が嵩山少林寺から発見され、それを元に福建省の九連山で発掘調査を行うと明代の大規模な寺院の遺跡が見つかるなど、定説が覆されつつあると報じられているが、その真実の解明については今後の研究が待たれる(現在、福建省泉州市に存在する南少林寺は新たに建立されたものである)。

日本では少林拳と少林寺拳法がしばしば混同される。少林寺拳法は義和拳の流れをくむとされる日本発祥の武道である。中国武術、日本武道及び古武術を研究して編纂されているが、中国の少林拳と技術における直接的な関連性は少ないとみる人もいる。現在、嵩山少林寺と日本少林寺拳法連盟には交流がある
八極拳(はっきょくけん、Bājíquán)とは、清代の中国河北省滄州の孟村に発祥したと伝えられる中国武術である。また、半歩拳法という別名も持つ。

その理念は、「八極(『淮南子』にある八紘より外のこと)すなわち八方の極遠にまで達する威力で敵の門(防御)を打ち開く(破る)」というものである。

八極拳は、敵と極めて接近した間合いで戦うことを得意とする拳である。 八極拳の風格は中国において「陸の船」とも形容され、歩法の運用も細密なため、 他派と比べて比較的遠い間合いでの戦闘に不利であることが知られている。 そのため、近接短打以外の技法を補完する目的で、劈掛掌(劈掛拳)や蟷螂拳などと併習して学ぶ系統も存在する。独特の震脚動作を伴う重心移動や体勢の急激な展開動作を行うことを主な攻撃力(勁力)の源とし、馬歩椿歩などの基本功(基礎訓練法)と、小八極という套路で基礎的な実力を養成し、やがて大八極、六大開拳及び八大招式などの套路(型)で威力に実戦技法を加えるといわれる。 また八極拳は接近戦を重視する戦法をとる為、肘撃(肘打ち)や靠撃(肩や背面部で敵を打ち付ける攻撃) など、近接での体当たり戦法的な技法も他派以上に重視される傾向にある。

歴史
八極拳の起源は18世紀に河北省滄州のイスラム教を信仰する回族の居住地域であった孟村の住人・呉鐘(ごしょう)が、癩(らい)と名乗る遊方の道士からこの拳技を授かったことに始まるという。 (八極拳の起源には複数説があり、ひとつには張岳山という遊訪僧より、河北省慶雲県の后庄家村にて呉鐘に伝授されたと言う説もある。) 癩は呉鐘に拳技を授けるとやがていずこかへ去ったが、その後、癩の弟子と称する癖(へき)と名乗る道士が呉家を訪れ、六合大槍という槍術を授けたと伝えられる。この六合大槍は、現在でも八極拳との併習が行われており、槍は八極拳の主力兵器とされている。

八極拳の古名は把子拳(Bǎzi quán)と表記されていたと言われ、一説には明代の茅元儀が著した、『武備志』(その原典は戚継光の「紀効新書」「拳経序文」)に記載されている把子拳(巴子が拳棍)が、それと同種の拳であったのではないかとする説もある(資料によっては把子棍槍との記述もあり、どちらにしても八極拳の母体となったものは棍術ないし槍術などの長兵器術であったと思われる)。

また、拳の作り(手形)においての把子拳とは、五指の第二関節を折り曲げて握る手形のことである。かつて八極拳はこの手形を多用していたため把子拳と呼ばれたとの説もあるが、しかし呉鐘以前の伝系については明らかとするには物証に乏しく、詳細は不明である。

八極拳は当初、孟村の回族を中心に伝えられていたが、漢族が多く住む地域の羅瞳にも伝わり、漢族の間でも行われるようになり、やがて孟村の回族の系統と羅瞳の漢族の系統に分かれて伝えられるようになった。八極拳の中国全土への普及の切っ掛けは、南京中央国術館が少林門と武当門で共通の正課として、団体訓練用八極拳教材(別名・八極小硬架)を制定したことにはじまる。

こうして中央国術館の支部の拡大につれ八極拳は中国全土に普及し、その知名度を上げていった。団体訓練用八極拳とは、名前のとおり集団で一斉に練習し易いように八極拳の套路を改変したもので、小八極を教わる前の段階で学ぶ套路の小小八極(八極架)と、大八極を元に新たに作られた套路である。大八極と混同され易いが技法内容は大八極よりも遥かに簡素であり、より対打としてそのまま使い易く出来ている。後にこの套路は軍隊においても採用され、軍隊用八極拳ともいわれた。
ウリヤ きくすい ルーン はに丸 フィッシン サディ ビアガー ジャック コスプリ ワニス 深海 トリオ パンパン ボート レーター しじゅう オフロード シーン ドラム ナミビア やちょ アカペラ セミプロ レガッタ ロヤジル トルソ フフホト ケモカイン リンリン メシマ ニュー ビュス プロテクト テーブル シャレー コリオン 四季の綱 トメント フォロー オマージュ ゲート パセリ フォーク ナーダム おきな シート しょうわ サック ティペット ジョンツ

近年になって、八極拳のルーツであるとして少林寺八極拳なる門派が嵩山少林寺近郊において教授されているが、残念ながら技術書を見る限りでは、どの套路もかつて多く普及したこの小硬架を模倣したものと思われる。

日本での八極拳の普及については武術史研究家・随筆家として著名な松田隆智の功績が大である。松田はその著書によって初めて一般大衆に八極拳を紹介し、武術愛好者たちの興味を喚起した。 当初松田が紹介した系統は台湾に伝えられた武壇系八極拳であったが、その他の系統についても松田の影響を受けた後進たちが続々と導入し、現在では殆ど全ての系統の八極拳が日本には揃っている現状である。 また在日華僑の武術家であった張世忠は全日本中国拳法連盟の創始者佐藤金兵衛の要請によって、松田の紹介以前から八極拳の指導を行っていたという。

伝承者としては、羅瞳出身の李書文と孟村出身の馬英図などが著名である。李書文は比武(決闘)を好み、激しい気性の人物だったようで、彼に関する逸話は過激なものが多い。伝説ではほとんどの敵を最初の牽制の一撃のみで討ち果たしたといい、李書文に「二の打ちいらず、一つあれば事足りる。」との歌があったとされる。

溥儀の侍従武官
ラストエンペラーと知られる溥儀の侍従武官であった李書文の弟子霍殿閣は八極拳の使い手であった。八極拳学習者や研究者の間では広く知られている。

メディアにおける取扱い
八極拳は、他の中国武術にも増して漫画やテレビゲームなどで盛んに取り上げられる事が多い。例えば、漫画の『男組』では、主人公で陳家太極拳の使い手である流全次郎が、八極拳に対して全く歯が立たず、その後八極拳を身に着けることで宿敵を倒していく様が描かれている。これは、八極拳が他にも『拳児』等作品の中で取り上げられ、それをきっかけにゲーム開発者らが八極拳を取り上げた結果広く一般に知られることになったからである。なお、バーチャファイターの結城晶が使う八極拳は、清朝の皇帝親衛隊が扱う八極拳に苦しめられた日本軍が晶の祖父に命じて独自に開発させたものをベースとしているという設定で、この「結城流八極拳」を参考として描かれた作品もあるだけでなく、更にその点を承知した上でパロディとして取り入れている作品もあり、これらは実際の八極拳とは異なる独自のものとして扱う向きも多い。

上記のいずれも、松田隆智が日本に紹介した八極拳の範囲内である。 「男組」には『協力』という形で関与し、「拳児」においては原作者として関わっている。 八極拳において絶招(必殺技・奥義)とされている『猛虎硬把山』は両作品に登場するがスタイルが違っており、男組のほうの猛虎硬把山は、拳児における里門頂肘という技(絶招ではない)であるが、拳児においての猛虎硬把山は片手を伸ばし、震脚を使いながら掌底付きを繰り出す技となっている。

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